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父の命日に思う

父は昭和元年の7月26日に新潟県で生まれました。

今は柏崎市に統合されましたが、刈羽郡高柳町山中というところが出生地です。18歳になった父は昭和18年5月20日に舞鶴海兵団に入団し、昭和20年9月1日に任海軍二等兵曹、三ヶ月後に現役満期迎え、終戦まであと一年で再び、勅令で舞鶴で第二復員事務官。その僅か三ヶ月後に依願解雇つまり、敗戦を迎えました。87歳で人生を終えましたが、遺骨になった時の父の骨は多く、しっかりとした骨格でお墓の中に入りきりませんでした。戦争体験者の父は母と結婚して、ラジオ店を立ち上げました。

雪深い里での開業だったが、戦後も落ち着いて人口も多かった(私はまだ誕生前)

1950年前半ではまだテレビの時代ではなく、ラジオが中心でしたので、ラジオの組み立てが出来た父は同県でも貴重な人でした。私は生まれていませんでしたが、父は雪の日でも部品を買いに20キロも離れた町に自転車で部品を買いに行っていたそうです。若かりし戦争を終え、平和な日本の未来を描きつつ青年だった父は希望に燃えていたと思います。

ラジオからテレビへ

私が生まれた1956年から少しして、テレビが近所でもポツポツと売れ始めました。勿論、真空管のモノクロテレビです。

日本では1964年のオリンピックで世界からの遅れを一気に取り戻すべく、カラーテレビが売れました。私が8歳の頃ですが、とても鮮明に覚えています。青空、白い鳩、自衛隊によるファンファーレ、曲は古関裕而氏、日本選手団の白い帽子に白いポロシャツ胸にオリンピックの日の丸エンブレムをつけた赤いブレザー。女子選手は白のプリーツスカート、男子選手はダブルの白いパンツ姿。我が家は電気屋ということで、特別にカラーテレビがあったのだと思います。オリンピック景気は戦後の復興を象徴するように日本人の生活を一気に変えました。

地方から仕事を求めて東京へ

農家にとって冬場の豪雪地方には仕事がありません。

私の父は商人でしたので店で電化製品の修理に追われながら、出稼ぎには行きませんでしたが、小学校の友人のお父さん達は、冬場の出稼ぎで、雪の降らない東京やその近隣に行く事も少なくありませんでした。役場では子供達が遠くにいるお父さん宛の作文を文集にし、送るのを毎冬の習わしにしていました。半年後の四月に出稼ぎから帰郷するお父さん達のそれぞれ手には子供へのお土産….四月生まれの私は、故郷にあるそんな風景の幸せな空気が大好きでした。

出稼ぎに行かない父の仕事は、もっぱらお客様に買っていただいた電化製品を修理する事でした。

店の奥にある居間には大きな(小さかった私にとって)黒板があり、電話で来る修理依頼のメモ書きがたくさん書かれていました。私はその黒板の空いたところに絵を描くのが大好きでした。両親もその絵を褒めてくれるのでした。真空管むき出しのテレビの内側にどうやって人が入って歌を唄ったりしているのか?…修理している父にいつも訊いていた気がします。ドライバーやテスター、ハンダゴテ、毎日機械に向き合う父。冬場は当たり前に豪雪の山間にいるお客さんのためにテレビを背負って運んだり、どんなに夜遅くでも一人で山道を超えて修理に行ったり、都会の家電販売には無い、お客様と電気屋との関係、商品に対する愛があったと記憶しています。「一時間かけて行って、俺がテレビを触った瞬間、テレビが直った」と全身をびしょびしょにして帰った父「お客さんに、テレビも人を見るんだね」と言われ、笑顔だった父を今でも忘れません。

過疎化の原因

私の故郷だけでなく、多くの人口で成り立っていた村も町も、高度成長による社会の流れも生活にも変化が起こってきました。便利という魔法の生活スタイルとテレビからの情報によりよい仕事を求めて、不便な豪雪地から都会に移住する人が増えて来たのです。その頃の父は町の商工会の会長をしていたので、小さい町になんとか多くの働き場を作ろうと、町に縫製工場を作り、雇用を広げ、頑張っていたようです。またその後、音楽好きな母が担当でレコート店も始めました。幸せなことに中学生だった私は店に音楽が流れる中での帰宅が毎日でした。1970年代は故郷もなんとか、かんとか賑やかな街を保って、私も町の電気屋の娘として青春を謳歌できました。

23歳で東京に行った姉と地元に残った兄。高校生だった私はこの後東京の大学へ

昨年、とうとう私の故郷の中学校が廃校になりました。

我々が過ごした木造の校舎は30年前にコンクリートになってしまっていたので、当時の面影はありませんが、中学校時代の後輩も先輩も人生にあったアンカーが無くなった訳です。数年前に何かのCMで見ましたが、世界中で起きている現象が『大都市集中型』なのだそうです。これは資本主義の中で生きているならば当然に起こることなのかも知れません。そして経営的なことを考えたら都心に大学が集まり、故郷で大事大切に育てられた若い人口は、大学進学を機に都会に吸収される…..その後も、故郷に仕事がなければ都会に残って就職をし、結婚し、住まいを構える….誰の故郷にも若い力を止めるための財力も策もない。どんどん子育て世代が流出して、人口分布から欠損すれば子供の人口が減る。廃校は、時間の問題でした。高齢化に伴って、85歳まで開けていた店のお客さんの売れ筋は電池だけになり、母担当のレコードはカセットからCDに変わり、体力もなく閉店しましたた。そして、父は他界し、母も87歳で他界しシャッターが降りました。

1974年の大店法

商工会の会長をしていた時に、父はよく言っていました。こんな小さい商店街の近くに大型店が出来たら、たちまちお客さんがいなくなる。

何としてもそれを阻止しないことには、いつか日本の地方はシャッター街になる。生前父が言っていたことは本当になりました。大型店の出店を規制し、中小小売業を保護・育成することを目的とした大規模小売店舗法(大店法)が、1974年に制定されました。父はこの頃にアメリカに視察に行っていますが、広大な土地と車社会のアメリカでは巨大なスーパーや複合商店に巨大な駐車スペースが点散しているが、この小さいコミュニティーにこんな形が導入されたら、街は潰れる!」と怒っていました。地方の小さな町にはコンビニとシャッター街。少し行った広大な土地に駐車場完備の大型店という光景が当たり前の日本です。

大きな視点で日本を見たら

グローバル社会です。視点を世界から見たら、日本には勿体無い日本独自の良いところがたくさん。

例えば、昭和の戦後まで日本のいたるところに桑が植えられて、養蚕業も盛んでした。今更、あの頃の養蚕業に戻すというわけではありませんが、桑も、蚕の吐き出す絹も質が良く、日本の主産業で輸出していました。桑も蚕も多様に未来への可能性があります。47都道府県に「千年続く文化 着物」の反物産地があり、今でも着続けている…..世界的に見たらこんな国は稀です。銀座の真ん中にできたGINZA SIXに能舞台はありますが、日本に来た外国観光客は世界のどこにもあるような高級ブランド品を求めてくるのでしょうか?何がおもてなしなのでしょうか?海外からやって来る人に日本の特色は見えるでしょうか?

一本の桑の木プロジェクト

12年前に、Tradition JAPANを立ち上げた時に、様々な思いが私の頭の中にうごめいていました。アメリカの生活で体験したこと、アメリカから見た日本文化、移民のコミュニティーで感じた先人の思いの浴衣、外からの日本人のイメージ、そして今の日本。

勿体無い歴史が世界を分母にしたらあるのです。着る人が少なくなった「着物」中国や外国に任せてしまったものづくりと養蚕業….自由競争の中でいかにお金も王家をして資産を増やす、競争に勝つことが一番の流れに、これで生計を立てるのではなく、日本の特色を国としてのプロジェクトはできないものだろうか!?そう思っていました。それが「一本の桑の木プロジェクト」でした。

養蚕業が大昔のことでも、今も世代の人には先端でカッコいいと思うかもしれません。

私は知らず知らずのうちに、父がやり残したことをやっているのかもしれませんが、都市集中型ありきのトレンドよりも、分母を世界にして日本を考えること。温故知新の教えをもう一度日本にとの思いは強くなるのです。

7月26日は父の命日でした。

Tradition JAPANを立ち上げた時の狼煙
純粋になぜ着物の原料である絹は日本で作らないのかと思いました

勝ち色マスク

日本人の美意識と世界

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